絵を描き始めた頃だから16歳くらい…美術は趣味って思ってた頃だから14歳くらいからかな。当時の美術の教科書の副読本に載っていた「リュクサンブール公園・田辺市立美術館蔵」は凄い描き方だなぁ…でも魅了されたというか、でも何故か心に引っかかる絵でして、その魅力は高校2年生の頃まで燻っていたのですが。ちなみにその副読本に載っていた西洋編の「ロダン『パンセ』(カミーユ・クローデルをモデルにした大理石の彫刻) ・オルセー美術館蔵」の美しさを観て彫刻家になろうと決心したのはまた別の日にお話でも。
さて本日って言っても昨日ですか佐伯祐三さんがパリで客死された日なんですよ、8月16日は。
高校三年生の今くらいの時期、どうしても会いに行きたくなって、自転車に乗って…wあれから23年の月日が過ぎ去りました。
お寺の場所の記憶が定かではありません、一方通行逆走しそうになったりしながら20分ほど周辺を車でうろうろ。
ようやくたどり着きました浄土真宗本願寺派光徳寺…
はてさて今回はコレを持参しました。
この本を持ってお参りに行くと、ご親族の方がわざわざ出てきていただいて本堂へと上がらせて頂きました。
戦争の影響でしょうか、光徳寺さんにもこの画集は残っておらず、№088だったかな?近年に買われたそうです。多分上記の№001~005までの中の一冊は山本氏が進呈されていたんでしょうけどね。しかしどの資料見てもこれらのナンバーの話は出てこないので現存はしていないんでしょうね、どんだけ豪華だったのか観て見たい気がしますね。ちなみに野見山暁治氏は靴を買いに行った途中の古本屋でこの画集を見つけ、靴の購入代金をそのまま本代に当てたそうでw。この画集はまだ見たことの無いパリへと想いを募らせたそうで、奇しくもパリ留学が決った時に旅費のたしにするために売ったそうですが。
本堂へ上げていただくと…
色々と興味深いお話をさせて頂いて…
「(顔の無い)立てる自画像」は美術史上に残る未完の名作と思われますが、しかしご遺族の方達はそういう観かたではなく、本当に人間佐伯祐三を想ってのこと、痛ましくて嫌だとか。今まではスパンと竹を割ったように終わった人生に潔さというか、夭折に憧れを持っていたのですが(僕も身内が夭折したので今となっては不謹慎ですね)、こういう観かたもあったんだなと。だからご遺族の方達は前向きなお話と素敵な作品の会話で話が弾みました。
ここでこぼれ話を一つ。一度だけ佐伯祐三の「ノートルダム(マントラ=ジョリ)・大阪府立北野高等学校蔵」が光徳寺へ里帰りしたことがあったそうです。その時は絵を運んだ車を挟んで3台で厳重に運ばれてきたとの事。それはそれは凄い警備だったそうです(この絵一枚で新車のフェラーリが10台以上買えるもんなw)。こんなあけっぴろげな所にそんな大事な物置かれへんわ~と笑いながら仰られたのが心に残っています。また早く大阪市立近代美術館の設立を望まれていました、コレは大いに同意。いつまでああいう名作群を塩漬けしておく気なんでしょうね、大阪市は。
佐伯祐三といえば十数年前大規模な贋作騒ぎがありましたが、これらの事についても憤慨を通り越して、どうしたらいいのやらと困惑されていました。最近でた出版意図の分からない本を書いた人、コレくらいは最低でも読んだよな?
ちょっと頭に血が昇ってしまいましたが、上記のほかに倉庫にあと数冊図録があったはず。同じ様な作品ばかり載っているのに集めてしまう煩悩の数ですw 中でも同じ本が2冊あります。実は二十年近く前パリへ行った時に、佐伯祐三の写生場所を訪ねる事を計画していて用意していたのですが、出発のドサクサに忘れてしまいパリのジュンク堂だったかな?そこで!購入できました。そのあとジュンク堂へ足繁く通って友達に笑われた事を思い出します。
今日はそのあと一路奈良へ…昔私が予備校で教えさせて頂いた?時の教え子さん達と会食。楽しかったな。Aさんお幸せに。
当然シラフで帰宅し嫁さんを送り出しました。
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